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        by GEORGE OZAKI

「仕事人 ヴィック」
 60年代に活躍した英国の男性デュオ、ピーター&ゴードンのデビュー・シングル「愛なき世界」(A World Without Love)がポール・マッカートニーによるものであることはよく知られている。

 当時、ポールはピーターの妹で女優のジェーン・アッシャーと付き合っており、ジェーンの実家に居候をするほどの仲であった。その関係でピーターから作曲を依頼され、ポールが提供したのがその数年前に書いていたこの曲だ。

 1964年2月にリリースされた「愛なき世界」は、同年4月に全英シングルチャートでビートルズの「キャント・バイ・ミー・ラヴ」を蹴落とし2週連続で1位を獲得。さらに、アメリカのビルボード・トップ100でも1位を獲得する快挙を成し遂げた。

 ポールによるきれいなメロディ・ラインと気の利いたフック、ピーター・アッシャーとゴードン・ウォーラーの憂いを含んだコーラス・ハーモニーが爽やかで心地よい。
https://www.youtube.com/embed/eDHPAenvTQI

 加えて、この曲を引き立てているのが、エレクトリック12弦ギターによるオブリガートとソロだ。
 デイブ・クラーク・ファイブの「ビコーズ」を思わせるオルガンが主旋律を奏でる間を縫って低音弦と開放弦を絶妙に織り交ぜたリックが、重厚なベースのリズムと相まって、汎用なバラードになりがちな曲に躍動感とダイナミズムを与えている。

 このギターはいったい誰が弾いているのか、ずっと気になっていたが、雑誌やインターネットで調べても録音の詳細はわからなかった。しかし、英国のセッション・ギタリストの草分けビッグ・ジム・サリバンやスタジオ・ミュージシャン時代のジミー・ペイジがキンクスやゼム、トム・ジョーンズ、ペトラ・クラークといった当時のビッグネームの数多くの曲に参加していることは周知の事実であるし、この曲についても名うてのセッション・ギタリストが参加しているであろうことは容易に想像ができた。

 どうしても知りたくて英語でネット検索したところ、Vic Flick(ヴィック・フリック)という名前に行き当たった。
 イギリスのセッション・ギタリストで、トム・ジョーンズ、クリフ・リチャード、ポール・マッカートニー、ダスティ・スプリングフィールド、エンゲルベルト・フンパーディンク、バート・バカラック、ナンシー・シナトラ、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジなど、参加したレコーディングは枚挙にいとまがない。
 そして、もっともヴィック・フリックの名を有名にしたのが「007ジェームズ・ボンドのテーマ」だ。
https://www.youtube.com/embed/ye8KvYKn9-0

 007シリーズや『真夜中のカウボーイ』『冬のライオン』など数多くの映画音楽で知られるイギリスの作曲家ジョン・バリー率いる楽団ジョン・バリー・セヴンのギタリストであるヴィック・フリックは、また、ジョージ・マーティンン・オーケストラのメンバーとして、ビートルズの第1作映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』でリンゴが街をさまようシーンのバックに流れる「リンゴのテーマ」This Boyでも哀愁漂うギターを弾いている。
https://www.youtube.com/embed/GIvEc4yhdpM

 「愛なき世界」のレコーディングについてヴィックは「ヴォックスの12弦ギターを初めて使ったが、恐ろしく弦高が高くて良いサウンドではなかった。でも、最終的にうまくいって、レコーディングに新しいサウンドとキャラクターが加わった。(中略)ピーター&ゴードンはプロフェッショナルでとても良い仕事をした。」と語っている。

 より良いサウンドを追及するのに余念がないヴィックは、イギリス初のファズ・ボックス「トーン・ベンダー」の開発にも一役買っている。2013年、ギタリスト、作曲家、指揮者としての長年の活動が評価され、アメリカの National Guitar Museum から生涯功労賞が贈られている。

 たった1枚のシングル盤であっても、曲の成り立ちや参加ミュージシャンを辿っていけば思いもかけない事実に驚き、知らない世界への入口に立つこともある。これもレコード蒐集の愉しみである。
2017.11.03
名前の由来
 「ビートルズ」という名前が、バディ・ホリーのバンド、「クリケッツ」に因んでつけられた、という話はファンの間ではよく知られている。
 考えたのはジョンとスチュアート・サトクリフ。

 エルヴィス、チャック・ベリー、リトル・リチャード、ファッツ・ドミノ、カール・パーキンスといったスターたちと並んで、彼らが大好きだったのがバディ・ホリーである。

 1936年アメリカ、テキサス州生まれのバディ・ホリーは、1956年にデッカ・レコードからデビュー。
 1957年5月にリリースした”That’ll Be The Day”が全米・全英1位を記録し、その後も、”Words of Love” ”Peggy Sue” ”Not Fade Away”などをリリース。
 1958年には『エド・サリバン・ショー』にも出演するなど、若者に絶大な人気を博したが、1959年2月2日、ツアー中、移動のための飛行機が墜落し22歳の若さで帰らぬ人となった。
 同乗していた二人のロック・スター、リッチー・ヴァレンス(「ラ・バンバ」のヒットで知られる)とビッグ・ボッパーも死亡した。
 この日は「ロックン・ロールの死んだ日」と呼ばれ、1972年に大ヒットしたドン・マクリーンの「アメリカン・パイ」でもこのことが歌われている。

 ロックン・ロールといえども、まだビッグバンド・スタイルが主流だった当時、ギター、ベース、ドラムを自分たちで演奏しながら歌うバディのスタイルは新鮮で、多くのバンドが影響を受けた。
 もちろん、ジョンもポールもジョージも例外ではなかった。

 クオリーメンが初めて吹き込んだレコードは”That’ll Be The Day”だったし、ジョージがリード・ボーカルをとる”Crying Waiting Hoping” は下積み時代の重要なレパートリーだった。
 『ビートルズ・フォー・セール』では”Words of Love”をカヴァーしている。

 ジョンとポールが早い時期からオリジナル曲を作っていたのも、プロの作曲家が曲を作り、歌手が歌うという分業体制が当たり前だった時代に、自分で作曲して歌うというバディのスタイルが革新的で、そのことにいたく感銘を受けたからだった。

 また、当時のイギリスではアメリカ製のギターの入手は難しく、しかも高価だったため、バディが弾くストラトキャスターはギタリストの憧れの的だった。
 ジョージは授業中ノートにストラトキャスターの絵ばかり書いていたという。
 (実際にジョージが手に入れるのはずっと後、1965年にジョンと一緒に買ったソニックブルーのストラトが最初である。)

 強度の近視だったジョンが、人前でメガネをかけることを厭わなくなったのも、黒ぶちメガネがトレードマークであったバディの影響だと言われている。

 バンド、曲作り、ファッションなど、あらゆる面でバディの影響は大きかったが、もうひとつ、ジョンが憧れていたのが、バンド名だった。
 バディが率いる「クリケッツ」には、コオロギとスポーツのクリケットの二つの意味があることに気づいたジョンは、自分のバンドにも同じような名前がほしいと思った。

 二人であれこれ考えたあげく、スチュが思いついたのがカブトムシ。 
 綴りを”beetles”ではなく”beatles”にすれば、ビート音楽も想起させる。

 ビートルズという名前を聞いたとき、他のメンバーはちょっと変だと思ったそうだが、ジョンは得意げに言った。
「ダブルミーニングになっているから最高だぜ。クリケッツみたいにね。」

 しかし、この話にはオチがある。
 ポールによれば、後にクリケッツのメンバーと会う機会があり、バンド名の話になった。
 「ビートルズという名前はあなた方からヒントを得たんですよ。」

 ところが、アメリカ人の彼らは誰ひとりクリケットという競技を知らなかったのだ。

2009.08.29
マントヴァーニはごめんだ
 ポール・マッカートニーがフィル・スペクター・プロデュースによるアルバム『レット・イット・ビー』を嫌っていたのは有名な話だ。

 原点に戻り、オーヴァーダビングなしで、自分たちのありのままの演奏を収録するというのがそもそものコンセプトであったのにもかかわらず、「ウォール・オブ・サウンド(音の壁)」の巨匠が行ったのは、エコーやエフェクトの多用、オーケストラや合唱のオーヴァーダブ、ギターソロの差し替え、といった全く正反対のことだったからだ。
 中でも、ポールがもっとも気にいらなかったのが「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」のアレンジだった。


 
ポールには、綺麗なメロディを持ったバラードを書いたとしても「自分たちはロッカーだ」という自負があったし、演奏家としてのビートルズの技量とセンスには絶対の自信を持っていた。

 無駄な装飾を一切排除したシンプルな演奏でこそこの曲の持ち味が活かされると考えていたのに、これに大仰なオーケストラや女声コーラスを加えられてはたまらない。
これでは原点回帰(GetBack)どころか、ベタなイージーリスニング音楽ではないか。

 ビートルズ(レノン&マッカートニー)の作曲家としての評価を一躍高め、もっとも多くのカヴァーを生んだのは「イエスタデイ」だが、この曲の制作課程でも一悶着あった。

 ポールが夢の中で作曲したということで知られる「イエスタデイ」を最初に聴いたとき、プロデューサーのジョージ・マーティンは「この曲にはヘヴィーなドラムもギターも要らない。ストリングスはどうだろう。」と提案した。
 このとき、「ストリングス」と聞いて甘ったるいムード音楽を連想したポールは即座に言った。
 「マントヴァーニなどごめんだ。」

 最終的に、シンプルな弦楽四重奏が加えられることになり、これにはポールも納得した。(ヴィブラートは一切かけるなというのがポールの注文だった)
ポール以外のメンバーが参加していない「イエスタデイ」をリリースするにあたってはソロ名義でという声もあったそうだが、マネージャーのブライアン・エプスタインは「これはビートルズの曲だ」と言い切った。
もちろんポール自身もソロになることを考えたことはなかった。

 結局、「イエスタデイ」はシングルカットされることもなく(アメリカ、日本ではシングルカットされたが)、『ヘルプ』の1曲としてB面に収められ1965年にリリースされた。

 「イエスタデイ」での経験が「エリナー・リグビー」につながったことはまちがいないだろう。
 チェロやヴァイオリン、ヴィオラを使用しながらも、過剰な装飾を施すことなく、叙情的ではあっても決してセンチメンタリズムに陥ることがない音づくりは極めてロック的であり、それこそがまさにビートルズ的である。

 歪んだギターやドラムなしでもロックはできるということを証明しているし、同時にストリングスを使ってもムード音楽に堕することはないということを証明しているようにも思える。

 ビートルズはいつでもシリアスになりすぎることを嫌った。
『サージェント・ペパー〜』が「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」でドラマティックな大団円を迎えた後に聞こえてくるのは逆回転によるメンバーの奇妙なお喋りだったし、『アビイロード』が感動的な「ジ・エンド」で幕を閉じるかと思えば、「ハー・マジェスティ」にあっさり肩すかしを食わされる。
 「フリー・アズ・ア・バード」のアウトロに掻き鳴らされるウクレレは「このままで終わると思うなよ。」とでも言っているかのようだ。
「シリアスになりすぎない」ことは「つらいことも笑い飛ばす」リバプール人特有の知恵なのかも知れない。

 指揮者の大町陽一郎氏が、ある時、巨匠カール・ベームに「モーツァルトって、どう演奏すべきでしょうか?」と尋ねた。そのときベームは「モーツァルトはロマンティックであっても、決してセンチメンタルであってはいけない」と答えたという。

 「軽さが沈み、重さが浮かぶ」と表現されるモーツァルトの音楽
 哀しみを表現するのにも常に優美さを忘れなかったし、天真爛漫な曲調の中にも哀しみを聴きとることができる。
 ベートーベンのように胸の内をすべてさらけ出すようなことはない。

 内面にあるものをそのまま表に出すのではなく、抑えた表現にとどめることがかえって聴くものの心に染み入るものだということを、モーツァルトは表現者として解っていた。

 ビートルズはしばしば20世紀のモーツァルトと言われる。では、ビートルズとモーツァルト、両者に共通するものとは何か。

 天賦の作曲の才能はいうまでもないことだが、両者の根底に共通してあるものとは、したたかでユーモアを忘れないスピリット(精神)とやりすぎないバランス感覚なのではないだろうか。
 それこそが健全な音楽を形成している根底にあるものだと考える。


2009.07.19
ビートルズの立ち方
 ステージ向かって右側にジョンががに股で立ってリードをとり、左側にポールとジョージが一本のマイクをはさんで向き合うように立ち、コーラスで追っかける。
 ジョンとジョージの間、後方ではリンゴがドラムを叩いている。ビートルズを思い浮かべるとき、多くの人が抱くイメージだろう。 揃いのスーツを着て、サイドゴアのブーツを履き、リッケンバッカー、へフナー、グレッチのギターを抱え、この隊形で立てば誰もが疑いなくビートルズのトリビュートバンドだと思うに違いない。

 シルエットを見ただけでビートルズとわかるこのフォーメーションはマッシュルームカットや襟なしスーツとともに初期ビートルズを象徴するものである。

 しかし、一方で、全員がボーカルをとるのにフロントの3人にマイクが2本というこのフォーメーションは歌うのに都合のよいスタイルとは言い難いものだ。
 バンドをやったことがある人はわかると思うが、2人で1本のマイクを使う場合、どんなに顔をくっつけて歌っても1人で歌う時に比べると声は拾われにくく、当然バランスは悪くなる。

 では、このフォーメーションはいつ、どのようにして出来上がったものだろうか。
 ビートルズに関するあらゆる事は研究しつくされているにもかかわらず、筆者が知る限りこのことについて書かれたものはこれまでなかったように思う。
 今回はこのことについて考えてみたい。

 まず、このフォーメーションがいつ確立されたかを残された写真と映像から探ってみることにしよう。

 1961年にユルゲン・フォルマー*がハンブルグのトップ・テン・クラブで撮影したライブ写真にはジョン、ポール、ジョージがそれぞれのマイクで歌う姿が収められている。
 トップ・テン・クラブに出演したのは4月1日から7月1日までであったので、写真はこの時期に撮られたものだ。
 ステージ上の並びは(向かって)右からジョージ、ポール、ジョンの順である。また別の写真では右からジョン、ポール、ジョージの順となっており、この頃は特に並び順が決まっていたわけではなく、その時々で変わっていたようだ。

 ビートルズが演奏している映像で最も古いものは、1962年8月22日にグラナダ・テレビが収録したキャバーン・クラブでのステージである。
 この時収録されたのは、”Some Other Guy”と”Kansas City/Hey-Hey-Hey”の2曲だが、現存するのは”Some Other Guy”のみである。
 マイクは2本でジョンとポールがボーカルをとっている。並びは右がジョン、左がポールである。
同じ時に撮られたと思われる映像では、ポールとジョージがワンマイクで歌う姿を見ることができるが、並びはジョージが左でポールが右となっている。
 ちなみに、この3日前の8月18日、ドラマーがピートからリンゴに交代して初めてのステージが行われている。

 翌1963年、4月21日のエンパイア・プールで撮られた写真は興味深い。
 並びは右からジョン、ポール、ジョージの順だが、ポールとジョージの前には2本のマイクがあるにもかかわらず、二人はワンマイクで歌っているのだ。

 同じ年の8月22日にはサザンプトンで地元放送局のニュース番組の収録のために”She Loves You”を疑似演奏している。この時撮られた写真では、右からジョン、ジョージ、ポールの順で立ち、ポールとジョージはワンマイクで歌うという形を見ることができる。

 11月4日、ジョンの「宝石ジャラジャラ」発言で有名なロイヤル・バラエティ・パフォーマンスが行われた。
このときの模様は、ザ・ビートルズ・アンソロジーで観ることができるが、あのフォーメーションが完全に出来上がっているのが確認できる。

 以上のことから、1963年の4月以降、夏までにはフォーメーションが出来上がったと考えることができると思う。

 次に、これが誰のアイデアだったのかを考えてみたい。
 1962年の1月24日、正式にビートルズのマネージャーになったブライアン・エプスタインが手始めに行ったのは、ビートルズを「きちんとさせる」ことだった。
 イメージを洗練されたものにするため、革ジャンの代わりにスーツを着せ、ステージでの飲み食いや悪ふざけを止めさせ、時間も選曲も行き当たりばったりだったステージ構成をしっかり考えたものに変えた。演奏終了後のお辞儀もエプスタインの指示によるものだ。
 このときエプスタインはビートルズのイメージ向上を図るうえで、ステージ上の並びも決まったものにしたほうがよいと考えたのではないだろうか。
 それを裏付けるように、エプスタインがマネージャーに就任した62年以降、ジョンが右、ポールが左という基本的な形は固定している。
 では、何故このポジショニングなのか。
 この点に関しては、やはりポールが左利きであったことが要因だろう。
 ギターのヘッドがステージの両サイドに翼を開くように向くこの形が一番見映えが良いのだ。

 次に、マイクが3本ではなく2本である理由を考えていこう。
 1962年6月6日、アビイ・ロードのEMIスタジオで初めてのレコーディング・セッションが行われたとき、プロデューサーのジョージ・マーティンは、“リーダー”が誰かを見極めるため、各メンバーのシンガーとしての価値を検討したいとエプスタインに伝えていた。
 当時はクリフ・リチャード&シャドウズのようにシンガーとバックバンドという形態が主流であり、ビートルズのように3人のボーカリストがいたり、ハーモニーで歌ったりするグループはきわめて稀だったのだ。
 ジョージ・マーティンも当初はそういった既成の編成にこだわっていたのだろう。
 個性の強いジョンにすべきか、ルックスのいいポールにすべきか、(ジョージは他の二人に比べて声は良くなかった)いろいろ迷った末、「ソロは必要ない。このままみんなに歌わせよう。」と思ったという。
 この時点でジョンとポール(+ジョージ)というボーカルの形態が決定したのではないか。
 つまり、ジョンにマイク1本、ポールとジョージにマイク1本という形である。

 また、これはバンド内のヒエラルキーを表すのに最もわかりやすい形態だとも言えるだろう。
 ステージを観ている者にとっては、いったい誰がリーダーで、バンドを仕切っているのかということは殊の外重要なことなのだ。
 ちなみに、62年の時点では、ライブでのリード・ボーカル曲数はジョンが最も多く(41曲)、次にポール(36曲)、ジョージ(19曲)だった。

 このことに関しては、「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」紙の元アシスタント・エディター イアン・マクドナルドが次のように書いている。
 「ある程度はっきりしているのは、彼らが大衆の前に初めて現れたとき、ビートルズは、体つきもいちばん堂々としており、グループのなかで目立つ存在であるジョンに「率いられて」いるように見えたことである。彼はもちろん、霊感的な意味でビートルズを自分のものと見なしていた。まだ萌芽状態のグループを形作り、それから自分の大きな目的のためにポールを仲間に引き入れたのだから。
 それがステージでのビートルズのポジションに象徴的に表れている。ジョンはひとりで専用マイクを前に右に立ち、ポールはステージ左にいて、ジョージとふたりで1本のマイクを使っている。しかも、初期のステージで観客を盛り上げるエンディング曲として演奏された2曲”Twist And Shout” “Money”は、いずれもジョンの曲だ。」

 ポールとジョージの位置関係については、ステージを重ねるにつれて自然に変わっていったものであろう。
 ポールが右に立った場合、ベースとギターのネックが重なり、二人で顔をくっつけて歌うのには極めて不都合な形となる。
 ポールが左、ジョージが右に立てば、お互いをじゃますることなくコーラスをつけることができるし、二人の姿はまるで鏡に映ったようで見映えも良い。
 さらに、こうすることによりポールがソロをとり、ジョンとジョージがコーラスをつける場合のジョージのポジション移動もスムーズとなる。

 ジョンとポールがハモり、ジョージがそれに加わるときのポールの素早くスマートな身のこなし、“She Loves Youを歌うビートルズを観ると、このフォーメーションは実に良く考えられた極めて合理的なものだということができるだろう。

 また、ギターが右、ベースが左というポジショニングはビートルズ以降、ローリング・ストーンズ、ヤードバーズ、ザ・フー、クリーム、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルなど数多くのバンドによって継承されてきたものだ。
 ソングライティング、ボーカルスタイル、コーラスハーモニー、演奏テクニック、使用楽器、アレンジ、レコーディング技術とビートルズがもたらしたものは計り知れないが、それにとどまらずステージングについてもその影響力のすごさを感ぜずにはいられない。

 今回の考察は、筆者の限られた資料と知識によるものであるため、さらなる考察が必要と思われる。あらたな資料や事実をご存じの方は連絡をいただければ幸いである。

*1960年にハンブルグでビートルズと知り合い、アストリッド・キルヒヘアやクラウス・フォアマンとともにファッションやスタイルに影響を与えた。
 ハンブルグ時代のビートルズの貴重な写真を撮影し、そのうちの1枚はジョンのアルバム「ロックン・ロール」のジャケットに使用された。

補遺1
 60年代のマイクは現在のような「単一指向性」ではなかったため、横からの音も前方からの音と同じくらい拾っていたので、ワンマイクのコーラスも可能だったとの話がある。

補遺2
 「ザ・ビートルズ・アンソロジー」をご覧になられた方の中には、1963年1月にはフォーメーションが完成していたと思われる向きもあるかも知れない。
 Episode2に収録のマンチェスター公演での“She Loves You” (カラー映像)が付属の日本語解説には1963年1月20日とクレジットされているからである。
 だが、これについては、以下の2つの理由から1963年11月20日の誤りであることがわかった。
@ ビートルズ研究の第一人者マーク・ルイソンの「ザ・ビートルズ/全記録 vol.1 1957-1964」によれば、1963年1月20日はキャバーン・クラブに出演している。1月16日にマンチェスターでTV出演しているが “She  Loves You” は演奏されていない。
A 同じく「ザ・ビートルズ/全記録 vol.1 1957-1964」の1963年11月20日の項には、この日の公演の1回 目のステージで“She Loves You”と”Twist And Shout” が撮影され、楽屋風景、ヒステリー状態のファン、  ジョークを交えたメンバーのコメントなどもまじえて編集されたカラー・ニュース映画”The Beatles Come To  Town”としてまとめられ、12月22日から1週間イギリスの特定の映画館で上映された との記録がある。

主要参考文献
 「ザ・ビートルズ/全記録 Vol.1 1957-1964」(プロデュース・センター出版局)
 「ノーウエア Vol.21 ビートルマニアな1000日間」(プロデュース・センター出版局)
 「ザ・ビートルズ・サウンドブック Vol.2ライブ篇」(プロデュース・センター出版局)

2007.12.25
ビートルズは何処から来たのか
 ビートルズの故郷リバプールの南にはウェールズ地方が広がり、西には海を隔ててアイルランドがある。
 リバプールには、ウェールズ人やアイルランド人が大勢住んでおり、ウェールズ人は歌が上手く、アイルランド人は機知(ウィット)に富んでいると言われている。

 「歌が上手く機知(ウィット)に富んでいる」、これは、正にビートルズにぴったり当てはまる特質であり、彼らが今日まで世界中の人々に愛され続けてきた所以である。
 では、これらの特質は彼らの出生に由来するものであろうか、彼らにはケルト(アイルランド/ウェールズ/スコットランド)の血が流れているのだろうか。ビートルズは何処から来たのか。
 今回は彼らのルーツに迫ってみたい。

 かのハンター・デイヴィスの60年代の名著「ビートルズ」(草思社)によれば、
 ジョンの祖父ジャック・レノンはアイルランドのダブリン生まれ、人生の大半をアメリカで職業歌手として送り、(初期のケンタッキー・ミンストレルズのメンバーだったという。)歌手を辞めてからリバプールに戻り、そこでフレッド(ジョンの父親)が生まれた。
 ポールの両親はアイルランド出身、ジョージは母方の祖父がアイルランド出身。
 リンゴのスターキーという姓は、もともとスコットランドの北東、ノルウェーにも近いシェトランド諸島から出たものと言われているが、リンゴの祖父の姓はパーキンで、母親が再婚したため、スターキーになったのだという。
 後にリンゴはビートルズ・アンソロジーの中で「60年代に自分の家系図を作ってもらおうとしたんだけど、2世代しか遡れなかった」と語っている。

 以上のことから考えれば、“ジョン・ポール・ジョージはアイルランドの血を引くケルト系、リンゴについては不明”ということになる。
 が、一方で、「ブロンド・ヘアのいないFAB4は全員ケルト系」という説は60年代から周知の事実のようで、ビートルズとも親しくインドでの瞑想旅行へも同行しジョンにスリーフィンガーピッキングを教えたスコットランド人シンガーソングライター ドノヴァン、そしてアイルランドの国民的歌手メアリー・ブラックも認めている。

 ポールについては名前からもケルト系であることがうかがえる。
 ポールの姓McCartneyの“Mc”は、ゲール語で「…の息子」(=英語の”son”)の意味でアイルランド・スコットランド系の姓にみられる。エリナー・リグビーに出てくるFather McKenzieも同様である。
 また“Mc”と同様の意味で“O'”や“Fitz-”がある。
「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラScarlett O’hara もアイルランド系である。
 ちなみにジョージは初ソロ・アルバム“All Things Must Pass”での自らの多重録音によるコーラス隊に“George O’hara- Smith Singers”と名付けている。(“My Sweet Lord”で繰り返されるマントラ“Halleluiah”“Hare Krisha”で聴かれるのがそれ)

 以下にビートルズ(ジョンとポール)とアイルランドに関するエピソードを紹介しておこう。

 72年1月北アイルランドで「血の日曜日事件」が起きた時、ポールは “Give Ireland Back To The Irish”(アイルランドに平和を)を発表。(BBCで放送禁止)
 ジョンの“Sunday Bloody Sunday”“The Luck Of The Irish”(いずれも“Sometime In NewYork City”収録)もこの事件を歌ったものである。

 75年10月9日、ジョンの35歳の誕生日にショーン・タロウ・オノ・レノン誕生。
 ファーストネーム“Sean”は“John”のアイリッシュネームである。(名付け親はエルトン・ジョン)

 02年6月11日、ポールは北アイルランド、モナハン州グラスローにあるレズリー城で、ヘザー・ミルズと結婚式を挙げた。
 ポールは母メアリーがモナハン州出身であることから、この場所を会場に決めたという。
2007.07.18